現代の医療のあり方に一石を投じ、これからの医療の可能性を模索する。
心身統合医療に力を注ぐ、医師・樋田和彦のメッセージ。
誰もが「今」という時間と、「ここ」という場の中で生きています。これらがひとつになっているとき、「夢中」「集中」「無我」という状態が生まれます。
ある時、ふと気づいたことがありました。病んでいる人の中には、生きていることに目的がなく、過去の自分にとらわれ、他人と比較したりして現在を楽しめていない人が多いのだと。
いつものように、筋反射テストによって患者さんの自律神経の病態を調べ、交感神経の明らかな緊張状態を確認したときのこと。私は、傍らの机をポンと叩きました。すると、彼の交感神経の状態は正常に戻りました。彼は一瞬何が起きたかと驚いた様子です。しばらくすると元の状態に戻るので、またポンと叩きました。ふとしたひらめきで試したことなのですが、私は音を使って、彼の意識を「今、ここ」に集中させたのです。
病んでいる人の体はストレス状態にあり、ノルアドレナリンやアドレナリンのサインを筋反射テストで確認することができます。しかし、治療を施すと病体からそれらの反応は消え、代わりにβエンドルフィンの反応が現れます。では、どこにノルアドレナリンは行ってしまったのでしょうか。いろいろ調べてみると、驚いたことに診療室の天井付近に反応が見られることが分かりました。東洋医学では邪気という考えがありますが、邪気が治療によって人体から排除され、天井付近にたまっていたのです。
私は水を注いだグラスをそっと天井へと近づけました。その後、調べてみると邪気への反応がなくなっているのです。同じように塩を天井に近づけても、邪気への反応は消えます。代わりに、使用した水と塩には、邪気の反応が見つかりました。まるで、これらが邪気を吸収したかのようです。さらに、ポンと私が拍手をしますと、水と塩からも邪気は消えたのです。
おそらく、ここまで文章を読んだ方の多くは首をかしげることでしょう。私も最初はそうでした。しかし、これは事実です。私なりの考えを述べますと、神社参拝では、拝殿の前で鈴の音を鳴らした後、柏手(かしわで)を2回打ち、邪気を祓います。それと同じ現象が、患者さんに起こっているとはいえないでしょうか。
医療と宗教は対極、という見方が長い間続いていますが、それは医療=科学という限定があるからです。「今、ここ」に集中して生きることは大切な真理であり、そこには癒しの場があります。
静まりかえった中で「ゴーン」というお寺の鐘の音を聞くと、不思議と心が和らぎます。なかには鐘の音を聴いて涙を流す人もいるそうです。感動して「涙を流す」ときは、自律神経のバランスが良くなり、治癒力も高まっているといえます。邪気を祓い、人間の内なる治癒力を働かせることによって患者さんの状態が良くなるのであれば、医療と宗教はつながっていると私は考えます。
私たちの耳でキャッチできる音の領域は限られています。その領域をはずれた高音や低音は聞くことはできないのです。では、音は存在しないのかというと、そうではありません。波動を調べれば「音が存在する」ことは明らかです。
同じように、私たちには目に見えるものと目に見えないものがあります。「気」や「ストレス」も目には見えませんが、私たちの身体に大きな影響を及ぼしていることは確かです。「病は氣から」は当たり前のこととして、ふだんの生活のなかで口にする言葉です。しかし、エビデンス(証拠)を重んじる医学会や医師会では決してこの言葉を聞くことができませんし、真反対の目に見えるものしか評価をしません。
以前、催眠術で「努力逆転の法則」を習いました。これは意志の力を働かせようとすればするほど「内心の願望とは逆の結果が生じてくる」という法則です。
人間の病状も、努力すればするほど逆に報われないものということになります。
これと似ているのですが、ヨガの講義では「とらわれるな、ひっかかるな」「我欲を捨てよ」といった執着心への脱却や、「病に感謝」「病は治すものではなく治るもの」「病は教えである」「病は良いもの」「病に執着するな」と教えられました。これらの言葉には「病は敵」ではなく、むしろ「病のお蔭で生きていられる」という考え方があります。
実際、道場に来ている難病の人たちが治っていく事実をいくつも見ました。まさに「努力逆転の法則」の体験でした。道場では病を忘れさせ、自分を知るというもっと大きな視点に気づく機会が与えられます。つまり、自分自身が主治医になり、自己治癒していくということです。
さて、こうした経験から得た教訓を整理してみましょう。
「病には必然性がある」
― 何かの癖(条件)があるから病気になった。
― 条件が揃わなければ病気になりたくてもなれない。
「病気を薬では治せない」
― 薬は一時抑えの対処療法であって根本的には治らない。
― 薬を飲むことで病識が深まる。「病気だから薬を飲む」から「薬を飲むから病気は治らない」に変わる。
「医療には教育的要素が必要」
― 病気は自分のものであり、主治医も自分、治癒力も自分である。
― 病気というものはない。病気という健康の在り方である。
― “病気を学ぶ”より“健康を学ぶ”を優先する教育が必要。
「病は氣から」の「氣」が生命の本体
― 「医学会」と「氣学会」の目に見えるものと見えないものを超えた学会が必要。
次回は「症状即療法」についてお話します。