現代の医療のあり方に一石を投じ、これからの医療の可能性を模索する。
心身統合医療に力を注ぐ、医師・樋田和彦のメッセージ。
この頃、全国の医科大学に「総合診療科」が開設されるようになりました。どういうものかといいますと、「臨床に強い総合診療医(ジェネラリスト)が、身体を総合的に診療する、患者中心の医療」とされています。
なぜ今、大学病院にこうした動きが見られるのでしょうか。
理由は皮肉にも医学のめざましい進歩にあります。大学医学部の教育は、進歩に対応するために専門領域ごとに医療を追求し、医師たちは臓器別に学ぶようになりました。その結果「人ではなく、臓器を診る」と批判されるまでになってしまったのです。皆さんは、医療の現場でこんな声を聞きませんか。
「具合の悪いところがあちこちあって、いくつもの診療科を受診しなくちゃいけない」
「原因が分からなくて、いくつもの診療科をたらい回しにされた」
総合診療科や病院総合医(ジェネラリスト)の登場は、専門家・細分化された医療から、本来あるべきものに戻ろうとする「医の良心」といえると思うのです。それは私が医者になって40年以上追求し、実践してきた医療そのものです。どうして、そういう道を選んだかは別の機会に述べるとして、私が30代の頃から尊敬している、ノーベル生理学・医学賞の受賞者であるアレキシス・カレルについて少しお話をしましょう。
フランス人医学者のアレキシス・カレルは、血管縫合術および臓器移植法を考案して、現代医学の礎を築いた偉大なる人物です。その一方、聖地ルルドに巡礼の旅をして「祈りの効果」を信じ、泉の水で難病が治る「ルルドの奇跡」を学会で発表するなど、医学の枠組みを逸脱した存在でもありました。
彼の人生の集大成ともいえる「人間-この未知なるもの」が1935年に出版されると、ただちにベストセラーとなり、世界中の人に読まれるようになりました。じつは私の愛読書の一冊でもあるのですが、特に心に残っているフレーズがいくつかあります。
- 人間は、きわめて複雑な、分解することができない一個の「全体」である。
- 人間はひとつの全体であって、分析したり分解したりすることによって人間を把握するのは許されない。指一本、細胞ひとつ取り出してみても、すぐ死んだ指、細胞になり、生命を失うので、人間としての研究に役立つものではない。
- 病気になった肉体でも、正常なる肉体と同じ統一を保っている。ただ全体が病気なのである。
- いかなる病気といえども、唯一つの器官だけの病気というものは絶対にない。ひとつひとつの病気を専門化したのは古い解剖学的な概念にとらえられた人の罪である。
いかがですか。今から80年も前に、すでに医学の盲点について鋭く指摘をしていることに驚きを覚えます。こうした彼の考えは、西洋医学と東洋医学の枠を越えて心と身体の全体を診る「ホリスティック医学」にも継承されているわけですが、人間をひとつの全体ととらえる「ホリスティック」の考え方は、私の医療の原点ともなっています。ちなみに私はカレルの本を読んで深く感動し、ルルドを二度訪れました。残念ながら「奇跡」の場面に出逢うことはできませんでしたが。
話を「総合診療科」に戻しましょう。興味や関心を持つと、居ても立ってもいられなくなってしまう私は、名古屋大学医学部附属病院総合診療部教授の伴信太郎先生をさっそく訪ねました。いったいどんなお考えで医療をされているのか、ぜひ直接お伺いしたかったのです。
実際にお会いすると、たくさんの共通点があることが分かりました。なかでも印象深かったのは、10数名のスタッフの中に、海外でホリスティックを学んだ方、アロマテロピーの資格を持つ方など、現代医学ではまだまだ異端と見られがちな分野を追求する方がいらっしゃったことです。医学のあらたな「きざし」と捉えて心を躍らせる私は、少し大げさでしょうか。
調べによりますと、大学医学部附属病院に来院する1ヵ月の全初診患者は2500名。そのうち「総合診療科」では、約1割の200名を診ています。これは整形外科、眼科に次ぐ3番目の診療者数になるとか。そして初診の約8割の方の症状が、総合診療科のみの診療で解決するそうです。この数字からも、専門医ではなく、総合医の必要性が十分に読み取れます。
伴先生は、あるインタビュー記事のなかで、こう語っています。特定の臓器や疾患に限定することなく、幅広い視野で診る総合医も、「総合する専門医」というひとつの専門医であると。
私は今までもそうだったように、患者さん全体を診るという本来の医療を、これからも追求していきたいと心を新たにしています。
次回は、私が「心身統合医療」という道を選んだきっかけについてお話します。